はとぐみさん!

園長 古川陽子

♪ いつのことだか おもいだしてごらん あんなことこんなこと あったでしょう
うれしかったこと おもしろかったこと いつになっても わすれない ♪

楽しいことを見つける天才 Kくん。笑いもおしゃれもセンスが光る Rちゃん。素敵な好奇心の持ち主 Kちゃん。けん玉名人で照れ屋な Kくん。人前でも動じないしっかり者の Yちゃん。まっすぐで思いやりのある Hちゃん。優しい気配りができる Hちゃん。困っている人をみたら助けずにはいられない Rちゃん。周りを明るくしてくれる Mちゃん。物事を深く考えることができる Mくん。根気強くて頑張り屋の Hくん。笑顔がお花のように可愛らしい Nちゃん。自分の世界をちゃんと持っている Kくん。元気でのびのび Hくん。よく見て、よく聞いて、自分で考えることができる Rちゃん。ひょうきんさでその場の空気を和ませてくれる Hちゃん。みんなをまとめるリーダー的存在 Hちゃん。

 この幼稚園を卒園するはとぐみさん。「いつでも、どんなあなたでも愛されている」ことをどうぞ忘れないでくださいね。これからも聖愛家族としていつも応援しているからね。卒園おめでとう!!

※個人情報保護のためイニシャルで書いてありますが、ご家庭にお配りしている手紙には個人名で記載しています。

歴史を超えてつながる

チャプレン 司祭 八 木 正 言

 1985年3月、イラン・イラク戦争の際、サダム・フセインが「今から40時間後にイランの上空を飛ぶすべての飛行機を打ち落とす」と宣言したことがありました。戦争勃発の前にとイランにいた日本人は急いで出国を試みます。しかしどの飛行機も満席。他国は自国民救出のために特別機を飛ばしますが、日本政府は決定が遅れて救援機を出せずじまい、パニック状態に陥る人もいたそうです。
 そこに1機の飛行機が到着。取り残された日本人を載せて日本へと飛び立ちました。
 この飛行機はトルコ航空の飛行機。なぜトルコ航空が日本人を救出してくれたのか、政府もマスコミも事態を把握できませんでしたが…。
 時を遡ること120年前、オスマン帝国(現トルコ)から日本に派遣された特派使節が無事に任務を終え、巡洋艦エルトゥールル号で帰国の途につきましたが、その日は生憎の悪天候エルトゥールル号岩礁に乗り上げて沈没します。その時、命の危険も顧みず、船員たちの救出に向かったのは日本人でした。救出できたのは乗組員の1割ほどでしたがトルコの人々は日本に深く感謝したといいます。当時の駐日トルコ大使は語ります。「エルトゥールル号が遭難したときの日本人の献身的な救助活動を今もトルコ人は忘れていません。日本の皆さんは忘れてしまったかも知れませんが、トルコでは子どもたちでさえエルトゥールル号の出来事を知っています。だからトルコ航空が飛んだのです。」
 日本人の「時」の概念は基本的に「過ぎ去るもの、消えていくもの」です。しかし、過去の人間がしたこと―いいことも悪いことも―と自分がつながっていることを意識できれば、もう少し私たちは自己中心性という狭い世界から解放されるように思うのですが如何でしょうか。

新年を迎えて

主任 栗城 円

新しい年がスタートしました。今年もよろしくお願いいたします。今年はどんな年にしようか目標を考えますね。
先日、キリスト教保育の研修に参加させていただきました。その中で、「子どもたちはとても繊細です。愛をもって接しましょう。」というお話がありました。私事ですが、冬のこの時期は私を育ててくれた、曾祖母、祖母、大叔母の命日があり、家族と思い出を振り返ることが多くなります。曾祖母は私にまるく、穏やかに育つようにと名前をつけてくれました。祖母は、参観日に毎回来てくれる、ちょっとした名物おばあちゃんになりました。そしていつも厳しく叱って躾をしてくれました。その頃はどうして怒られる、嫌だなという思いばかりでしたがその厳しさにより、道を外れることなく過ごせたと思っています。大叔母は甘やかしてるんじゃないというくらい優しく接してくれて、心が休まる空間をいつもつくってくれました。
その頃は、すぐにわからなかったけれど、今改めて三者三様の愛をもらって過ごしていたんだなと感じ、感謝の気持ちで年の初めを迎えています。
心から親身になって子どもたちに接し、そしてみなさまと共に愛を持って今年も過ごしていきたいと思います。みなさんにとっても良い年となりますように。

優しい心で

主任 栗城 円

 新学期が始まって約2ヶ月が経ちました。保護者の皆様には、いつも温かく見守っていただきましてありがとうございます。4月に緊張の顔だった子ども達も、今ではニコニコ笑顔いっぱいで過ごしています。先日行われた「リオンドールコンサート」ではお客さんに元気になってもらおう、喜ばせようと元気に歌う子どもたちの姿を、とても頼もしく感じました。
 さて、行方不明だった亀のかめぞうさんが、一ヶ月ぶりに帰ってきました。子ども達も先生達も大興奮!「おかえり!」「みつかってよかった」と安堵する子、「げんきだったかな・・・」「ご飯たべていたのかな?」「さみしくなかったかな」と心配する子、子どもたちの様々な思いを聞くことができました。やさしい心で、相手の気持ちを考えること、想像することを子どもたちは日々の生活の中で自然としているんだなと感じました。自分の思いを押し付けがちになりそうですが、愛をもって相手のことを考えると、やさしい思いが溢れ出てくるのですね。幼稚園犬のココアも自由遊びにまぜてもらうことがあります。「ココア、おいで!」と優しく迎えてもらっています。食いしん坊で、食べてはいけないものまで口にしてしまいます。先日も落ち葉を食べようとしていました。私がダメ!と強く叱っていると、「ちょっとどんな味するのかたべてみたんじゃないの。」という声が。ココアの気持ちになってくれてありがとう。子ども達から、いつも優しさをもらっています。

迷える羊

園長 古川陽子

子育ての悩みについてアンケートをとったところ、「赤ちゃん返り」が上位にランキングしたそうです。「赤ちゃん返り」は、退行したような行動をとることで親の愛情を確かめようとするものですが、そうできるのは親を信頼し愛しているから。弱いダメな自分を出しても大丈夫と思えるからこそ、安心して「返る」ことができる。私はそう思います。
ある誌面には、そのアンケートをもとに、様々な子育ての悩みに答えるという企画がありました。でも、子育てに正解は無くひとそれぞれ。正解を求め、その通り行えばうまくいくかというと決してそうではありません。もちろん、第三者の意見に納得したり勇気づけられたりということもあるでしょう。一方で、自分には面識がない人が不特定多数に向けて話した言葉よりも、気の置けない仲間と語り合う方が力になることも多いのではないでしょうか。
 先日の「迷羊会」のテーマは“ゆとりを持つには”でした。決してゆとりがあるようには見えない(失礼!)司祭さんのお話は、気持ちが楽になり前を向けるものでした。でもそれと同等に豊かな時間となったのは、その後お茶を飲みながら、みなさんとしたおしゃべり。今回のテーマを軸に、日ごろの思いなどを話せる時間となりました。気兼ねなく、安心して自分の思いを言える場所。相手の話を自分のことのように親身に聞いてくれる人がいること。そんなことが、日々悩みながらも頑張っている私たちに力を与えてくれるのだと思います。そして、その場所に迷羊会がなってくれたら…。迷羊会でなくとも、何かに迷ったとき、誰かに話したい気持ちのときに幼稚園を選んで訪れてくださったら、なんてステキなことでしょう。
どうかそんなときは幼稚園を思い出してくださいね。司祭さんも、私たち教職員も、いつでも聖愛家族のみなさんを両手を広げてお待ちしていますから。

子どもたちの観察力

主任 栗城 円

先日、行われましたバザーでは、保護者の皆様のご協力のもと、盛況のうちに終えることができました。ありがとうございました。私は、毎年、はとぐみさんがお店屋さんになる、おもちゃコーナーを担当しています。「いらっしゃいませ!」と元気に言う子、恥ずかしそうにしている子、たくさんのお客さんに緊張してしまう子など、いろいろな表情が見らます。実は、それを見るのも楽しみのひとつにしています。子どもたちの様子を保護者の方にお伝えすると、「お店屋さんごっこが好きでよくしているので、その延長でできたんですね。」「“お店屋さんになるために、名札をつけなくちゃ。お父さんもお仕事の時つけているから!″と言って準備してきました。」など、お家での姿を教えていただきました。憧れのお店屋さんや大好きなお父さんをよく観察して真似をする。なるほど。子どもって、よく見ていますよね。私たちが、思いきり楽しめば子どもたちもニコニコします。やりたくない、つまらない姿をみせると、子どもも寂しそうな姿がみられます。イライラ、怒り気味な態度になることもあります。つまらないことがあったとしても、次は楽しく!とプラスになれるように振舞ったり、お話したりできるよう心がけたいですね。
「お家に帰ってくると幼稚園ごっこしてます。先生役になりきってお人形にお話してます。」とよく聞きます。どんなお話しているのかな、私もステキなお手本になれるようにがんばります。

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」

チャプレン 司祭 八 木 正 言

井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。小さな世界に閉じこもり広い外の世界を知らない、ということです。ところが最近ある本で、これを「井の中の蛙、天を見る」と読み替えているのを見つけました。見事な換骨奪胎=読み替えです。天は大海よりも広く、大きいものです。だから、たとえ小さな井戸にあっても、その眼差しは天に向けられていることが大事である、そんな真実を表現しているのだと思います。滋賀の老舗和菓子屋のお菓子に「一壺天」というのがあり、その説明書きに“心にとらわれがなければ、小さな壺も天のように広くなる”とあったのを思い出しました。
21世紀に生きる人間は、科学の発達=交通手段の発達によって「大海」に飛び出すことは容易になりました。しかしそれと引き替えに、天を見つめ、自らの小ささを思う謙虚な視点を失ってしまったのではないでしょうか。
どんな社会、どのような場にいても、所詮人間の住むところは狭苦しい井戸でしかありません。大海に飛び出したとしても、やがて時間の経過と共に、その大海さえ井戸であると感じるようになるのが人間なのだとも思います。
一つの果てしないもの、それを見つめて生きることこそ、今ある場所を無限に多様で豊かな世界として生きる秘訣なのだと思うのです。
 私たちも、愛と勇気をもって、そして何より天に眼差しを向けつつ生きる者でありたいと思います。地上の富に心を奪われていると、本当の「安心」はいつまで経っても訪れないのではとさえ思います。私たちの富のあるところに、私たちの心もある…心に留めていたい一言です。