【3月の言葉】 言葉ではなく

 春を思わせる陽気に、園庭の隅の土の中から福寿草が顔を出し一輪の黄色い小さな花を咲かせました。園児たちは、穏やかな日の光を受けながら、氷鬼や手つなぎ鬼など体を動かすあそびを楽しみながら、園庭を元気に走りまわっています。


 生と死を主なテーマに活動を続ける若林一美氏が「悲しみを超えて生きる」という本の中で「慰めと癒し」についてこんなことを書いていました。出産後まもなく我が子を亡くした母親が、その悲しみから立ち上がれず、周囲の人たちの慰めの言葉にかえって痛みが大きくなっていくのを感じながら、自分を立て直すきっかけすら見いだせないまま数年を過ごしました。ある時、悲しみをテーマにした講演会に参加した時、講演終了後ある人が質問をしました。「私は、お子さんを亡くされたお母さんを見るのが辛くてたまりません。どうやって慰めてあげればよいのか、言葉もうかばず、どうしたらよいのでしょうか」と。その言葉を聞いた時、彼女は自分の身体にあたたかな激流が走るような思いがして、涙があふれてとまらなかったと言います。「私の悲しみを認めてくれる人がいる。そのことがとてもうれしかったのです。そういう形で、私のようなものに対して、心を砕いてくださっている人がいる」。それが彼女にとって救いに通じるものとなった、自分への具体的な働きかけではなかったけれども、他人の悲しみになんとか全身全霊で向きあえないかと苦しむその人の姿そのものが彼女の癒しとなったのです。


 はと組みさんの卒園がいよいよ近づいてきました。聖愛幼稚園で思いきり楽しく遊んだ思い出を胸に、元気に小学校へ巣立ってほしいと思います。そしてもう一つ、この幼稚園でいつもいつもお礼拝の度ごとにみんなで祈った、恵まれないお友達への思い、たくさんの悲しむ人たちへの祈りの心を、いつまでも、大人になっても持ち続けてほしいと願っています。具体的な何かができなくても、気の利いた言葉をかけられなくても、隣人の悲しみに心を砕き共に在ろうとする思い、その姿が人を慰め、再び勇気を抱いて立ち上がる癒しとなるのですから。