【10月の言葉】我思う

 季節も秋の装いを深めております。この季節はなんとなくセンチになります。春のあの桜の花の下での心ときめかした思い。いわばそれはI hopeでした。その季節を過ぎ、秋は物思う季節 I thinkです。

 昨夜、三年前に読んで感動した『砂漠でみつけた一冊の絵本』(柳田邦男)を読み返してみました。そのなかに〈誰れの人生にも春夏秋冬がある〉の下りに心を奪われました。それは、柳田氏のご子息の洋二郎氏が二十五歳の若さで自ら命を絶つという事態に、故司馬遼太郎氏が柳田氏に送った手紙です。少々長くなりますが引用させていただきます。

 『御胸中の万分の一を察し入りつつ、人間のいのちが両親や他の人々にいたわれつつ辛じて存在していること、いたわりが千万倍ふえようとも、掌の中の露の玉のように指の間から落ちていくこと、そのはかなさ、それは内村鑑三のことばを強いてあげれば《勇ましく高尚》なものであるかと存じます。吉田松陰は洋二郎さんよりもニ、三歳上でもって生涯を終えました。「人は、たとえ六十、七十であろうと、二十五、六であろうと、春夏秋冬というものがあるのだ。悔ゆることはない」と死の直前に書きました。われわれは馬齢であります。二十五歳は宝石であります。まことにまことに。』

 私の心を占めたのは、飛躍はなはだしいかも知れませんが人間の幸福とはなんだろうか、ということです。若くして両親の掌の中から零れ落ちる露―夭折は、どんな言葉で繕うとも、悲しいことであり、不幸なことです。でもそこに意味を与え、そして残されたものにも生きる意味を与えるのが幸福観ではないかと思っております。〈誰の人生にも春夏秋冬〉があるとはまさに生きるものへの慰めではないでしょうか。そして、人は、その慰めをもって、人間は存在そのものが幸福なのだという究極の思いに辿り着いていくのではないでしょうか。

 そんなとりとめもない思いを巡らして、秋の夜長を過ごしております。我思うゆえに我ありです。