【11月の言葉】 我思う(2)

 先月に続いて、とりとめもないよしなしごとを綴らせていただきます。
 もう半世紀も前に読んだ本で、武者小路実篤の「若い日の人生」があります。白樺派と呼ばれ明治末から大正にかけて、日本の近代文学の象徴的な存在でした。それは人道主義、理想主義を標榜したものでした。この本に出会ったのは、私が高校生か、大学生に入りがけかのときだったと思います。そのころは安保闘争を中心とした学生運動の時代でした。私たちは、白樺派の主張などは生ぬるく、社会変革(革命)にはむしろ邪慮だとして、歯牙にもかけませんでした。その本はいつの間にか忘れ去られ、下宿の本棚の隅に追いやられていたのでしょう。ところが、不思議なことに、その後の私の人生の変遷にもかかわらず、その本は、ちゃんと私の傍らにいたのです。当時の本はほとんど失われたにもかかわらず。
 私は、最近このような類いの事象に敏感になっています。それというのも、人生の不思議さ―どう考えても説明のつかない部分に心を惹かれることが多くなっているせいなのかもしれません。歳のせいで朝早く目覚めることが多くなってきました。床の中で頭に浮かぶことは、ほとんどが我人生の来し方であります。その節目節目に、なんらかの力が私を守り、導いてくれたのではないかと思うことです。そして今、私は生かされているのだと確信することです。その何らかの力は論理的に説明つくものではなく、むしろ説明がつかない領域をもっているものだと思います。
 その本は表紙がボロボロになり茶色く変色してありました。何の気なしに私が手にとって開いたページには次のように書かれていました。
 「私たちが、何のために、この世に生きたかは理屈ではわかりません。ともかく私たちがこの地上に生かされたのは何かによって生きることを望まれて、その望まれたことによって私たちが生きている。……」。
 今この原稿を書いている最中に、園庭から子供たちの声が上がりました。この子供たちに幸多かれと祈らずにはおられませんでした。