【1月の言葉】五十年ぶりの年賀状

 新年あけましておめでとうございます。

 今年も正月は年賀状を楽しんでいました。楽しむとは、年賀状を介して、ひとりひとりと会話ができるような気がするからです。普段は逢えない人とのつながりを感じたり、顔を思い浮かべることが心を和ませてくれるのです。

 五十年来音信のなかった旧友からの賀状を受け取りました。「3月20日に甲子園に行きます。」の一行がありました。彼とは高校時代に野球を一緒にし、甲子園に出場しました。汽車に乗って同じ大学を受験し、同じく一浪し、予備校も同じでした。青雲の志を抱いて上京したのがついこのあいだのような気がします。あれから五十年近くが経ってしまったのです。ほいんとうに思えば遠くに来たものです。

 その後彼は目指す大学に合格し、一流企業に入社し、重役になりました。新聞の経済欄で知りました。一方、私といえば、予備校も途中でドロップアウトして、あとは、学生運動と放蕩の日々を過ごしていたのでした。

 実は、私の心の中には、「友がみな我より偉く見えし」という啄木があったのは事実です。他人と比較して不遇をかこって、自己を慰めていたのでした。しかし、年ふり、信仰を得たころより徐々にそのトラウマは薄らいできました。それは聖書にある次の言葉でした。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(パウロ・テサロニケの信徒への手紙?)。ほんとうに今在ることに感謝して生きることが人生を豊かにすることを知りました。視点をかえて、心のあり様をかえて、生きる喜びです。

 旧友からの賀状は、ほんとうになつかしかった。3月20日に甲子園で逢うことはできないかもしれないが、私は彼とすでに「この年賀状で逢っていたのでした。